吾輩は人間である。

先日、船橋市の勤労市民センターにて、『犬と猫と人間と』の上映会が行われ、嫁とともに行ってきた。映画の感想を含め、いろいろ考えたことを書いてみようと思う。
まず会場へ入る際、今回の上映会を企画したスタッフらしき人々が、資料を配布していたのだが、「船橋市動物行政資料」、動物愛護の観点から活動されている地元の団体の広報資料などとともに、「君のおかあさんは毛皮を着ているの?それはボクのお母さんのだったんだよ・・・」という衝撃的なキャッチコピーが、愛くるしい動物(タヌキか?ミンクか?)の写真とともに印刷された三つ折りのパンフレット、また、動物実験を行っているメーカーと動物実験をしていないメーカーのリストが印刷された「NO!動物実験 動物実験をしていないメーカーの製品を選ぼう」という八つ折のパンフレットが入っており、私は正直たじろいでしまった。自主上映会なので、通常、劇場で鑑賞するよりは、ずっと安い料金で見られるため、「すごいお得やん。見に行こうや〜」と気楽なノリで嫁を映画に誘ったものの、これらの資料を手渡され、目を通したとたん、嫁の表情がすこしだけ険しくなっているのにも気づいた。動物虐待が蔓延る現状に怒りまくり、ともに運動を起こしていきましょう!と熱く語られるのかと覚悟もしていたのだが、映画が始まる前にあいさつで舞台上に登壇された飯田基晴監督を見て、その不安感は一気に和らいだ。その風貌、優しそうな声、表情に、どこかホッと安らげるような妙な魅力をお持ちの方だった。
さて、肝心の映画の方だが、1日あたりに殺処分される犬猫の数、約1000匹という痛ましい現実、それを観客に訴えかける映画ではない。もちろん、そういう現実を多くの方に知ってもらいたいという飯田監督の思いはあっただろう。ただ、それはこの映画のあくまでもとっかかりである。「殺処分される数があまりにも多すぎはしないか?」という素朴な疑問から、飯田監督はその答えのヒントとなるものはないかと、いろいろな場所へでかけ、いろいろな人間と出会っていく。
社会派ドキュメンタリーを作りたいなら、小さな檻に子犬、子猫を入れ、ディスプレーし、売れ残った子たちはたたき売りのような価格設定で販売し、さらに売れずに大きくなってしまった子らは処分してしまうようなペットショップや、「吠えぐせや噛みぐせがひどいから」という自分勝手な理由でペットを捨ててしまうような無責任な飼い主を、突撃取材でもして糾弾すればよい。この映画のよいところは、そんなことには興味がないところだ。やむにやまれぬ事情で飼っていた犬が飼えない状態になり、引き取ってもらうべく、動物愛護センターへやってくる女性が登場するが、飯田監督の視線は、そのような飼い主が存在する日本の悲しい側面に向けられるわけではない。彼女がいかにその犬を愛していたか、ということを彼女の涙する姿とともに映し出す。この映画に登場する人間は、そのかかわり方はそれぞれだが、みんな犬、猫を愛し慈しみ、ペット大国、日本の負の部分に対し、自分なりの考えや、疑問を抱きながら、または漠然と感じながらも、日々の日常の中で、自分のやれること、やるべきことを淡々と実行していく。そんな中、動物愛護の先進国、イギリスを飯田監督は取材する。たしかに犬、猫にとっては日本という国は、映画の中で登場するマルコ・ブルーノさんが言うように地獄のような国なのかもしれない。でも私は、この映画に登場する人間を見ていると、日本ってまんざらでもないな、という気さえしてくる。

私は、所詮、犬、猫は犬、猫であって、人間となんでも同等に、いや場合によっては人間以上に扱うペット様状態が蔓延る風潮はおかしなことだと思っている。子供の頃、すて猫、野良犬に給食の残りのパンなんかをあげて、餌をあげてる内に愛情が湧いてきて、家に連れ帰ったら、親にこっぴどくおこられ、泣きながら遠くの場所へまた捨てにいく、なんてことは誰でも経験あるのではないだろうか? そんな経験を経て、学ぶことも多かったと思う。映画に登場する徳島の小学生たち(お年玉なんかを出し合って、餌などを購入しながら、捨て犬を空き地で世話している)なんて、とても微笑ましい感じがした。

なんか思いつくままに書きこんでいたので、長々となってしまった。この映画を見て感じたこと。所詮、犬は犬、猫は猫、人間は人間。 この映画が、ペット社会の悲しい側面を映し出しながらも、ユーモアを忘れず、優しい感情になれるのは、犬様、猫様、人間様なんていうゆがんだおごりがなく、それらを、飯田監督の所属する映像グループ、ローボジションという名前のとおり、同じように低い位置から見つめている結果だと思う。

映画「犬と猫と人間と」 オフィシャルサイト